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読書の快楽とは?『遅読のすすめ』山村修

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「遅読」

最近よく書店で見かける「速読」とは正反対の言葉だ。

現代の情報社会の中、限られた時間で、いかに速く、大量に本を読むかを謳った書籍をよく見かける。そんな中、僕は『遅読のすすめ』という本を手に取った。

 

僕は本を読み始めたのが遅く、24歳くらいからだ。それまでは漫画ばかりで、ほとんど本など読んだことがなかった。それに勉強もまったくといっていいほどしなかったので、活字をみると眠くなるくらいだった。

そんな僕が司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で読書の面白さを知り、ポツポツと本を読むようになった。

スタートが遅かったので、早く追いつけ追い越せと、せっせと読むものの、そんなに速くも読めず、読みたい本がたまっていく。それに、読めば読むほど、どんどん読みたい本が出てくる。読んでも読んでも追いつかない。

 

そこで「速読術」や「一瞬で内容を理解し、忘れない方法」などのテクニック本を読み、試してみるものの、そう上手くはいかない。

 

目を早く動かして文字を追おうとすると、そちらに意識がいってしまい、まったく内容が入ってこない。飛ばし読みをしようとしても、もしかして大事な部分を飛ばしてしまっているんじゃないかと、結局また戻ったりして進まない。仮に飛ばし読みができたとしても、なんだか本を読んだ気がしない。

 

そこで『遅読のすすめ』だ。

この本には、そんな悩みを解決するヒントが書いてあった。それは、タイトルにもあるように「遅読」をすることである。

 

著者は山村修青山学院大学の図書館司書をしながら「狐」というペンネームで日刊ゲンダイで書評を発表し、著書も数冊出版している。

 

この本の中で著者はこう言っている。

読書の基本は通読だと思っている。一冊の本を、はじめの一頁からおわりの一頁まで読み通す、それが基本。(中略)

通読することではじめて、読書をしたのだと自分の心が納得する。 拾い読みや飛ばし読みに、読書の快楽はない。そもそも、拾い読みや飛ばし読みを読書のうちに数えたことがない。

なるほど「飛ばし読みをしても読んだ気がしなかったのはそういうことだったんだ」と納得した。確かに必要に迫られて情報を得るためだけに本を読むのなら、拾い読みや飛ばし読みでもいいのかもしれない。しかし、僕が求めている読書とは「読書から得られる快楽」なのかもしれない。

 

著者の主張はつづく。

ジャーナリストや学者などが、必要から本を速く、たくさん読む。それは反対しない。しかし「1ページ1秒…」や「読む必要のない本の見きわめをなるべく早くつけて…」などという読書法には違和感を感じるという。

その違和感とはなんだろう。考えるうちにわかった。必要があって本を読むとき、私はそれを読書とは思っていないのだ。それは「読む」というのではなくて、「調べる」というのではないか。あるいは「参照する」というのではないか。 

著者も、企画書やレポートに役立てることがあり、拾い読みや飛ばし読みもするが、それを読書の冊数としてはカウントしないという。

 

僕は読書をし初めの頃、読み終えた冊数を数えて満足していた時もある。そのために、ザッと目を通しただけの本もカウントしたこともある。でもそこにはなんの喜びもなかった。著者の言うように、それは「読む」ということではないのだとわかった。

 

最後に著者は皮肉たっぷりで、こう締める。

本を速読してしまうことは、私には、本のもたらすあらゆる幸福の放棄であると思える。ただ一つ、速読を実践する人たちにしか味わえない幸福があるのだろうとは推測できる。それは、量とスピードのもたらす快楽である。今月は三十冊読んだ、五十冊読んだ、百冊読んだと、手帳に書きつける快楽である。 

それがいけないというわけではなく、こういう楽しみ方もあると思う。ただ著者の考える読書とは違うということで、僕も著者に賛成だということだけだ。 

 

この考えに共感できる人は、この本を読んでみると発見があると思う。共感できない人も、一つの意見として読んでみると面白いと思います。